広島への道(一)

広島のこと

 「里」十一月号の特集で「句集『広島』を伝えていくために動き出します」と書いた。その後、思いきって広島を訪れることを決めた。  

 手帳を開いてみると、十二月の空いている日が一日。よし、この日で日帰りしようと決めて、東京ー広島間の始発と終電を調べた。朝六時発の夜二十四時帰京でなんとかなる。腹を括った。その勢いのままTwitterに「日帰りで広島に行ってきます」と投稿した。あては全くない。けれど、行けばなんとかなるだろう。いや、なんとかする。

 すると、投稿を見た牙城さんから伝書鳩がすぐに届いた。鳩のやりとりを重ねるうちに、句集『広島』特集の端を開いた水口佳子さんとも繋がり、いつのまにか皆で広島に集合することが決まっていた。弾丸だった日程も調整を重ねて、一泊出来ることになった。

 十二月十五日、午前十一時。広島市の平和記念資料館東棟入口で、我々は出会った。牙城さん、眠兎さん、佳子さん。そして水内和子さん、松本加代子さんもいらしてくださった。

 資料館の見学の後、被爆体験伝承者の細川文子さんが語る川本省三さんの経験を聴いた。細川さんは自らも被爆二世、深い想いを持って語り継ぐ活動に取り組んでいるご様子に胸が熱くなった。

 午後になって、「夕凪」の伊達みえ子さん、飯野幸雄さんにお会いした。原爆投下当時十六歳だった伊達さんは、この日初めてご自身の体験を我々に語ってくださった。お話くださる伊達さんの瞳は時折、透明に潤んだ。

「夕凪」代表の飯野さんは当時五歳。短い言葉の中には積年の想いが滲んでいた。中国新聞の記事についても静かに語ってくださった。

 帰り際、伊達さんが女学生の頃に好きだった歌の話をしてくださった。

「当時『愛国の花』という歌が流行っていたんです。銃後の護りを固める女性たちを、梅や山桜に喩えた歌でした。でもね、私やお友達は『椰子の実』が好きだったんです。『愛国の花』と『椰子の実』がクラスの中で人気を二分していました。」

「名も知らぬ遠き島より、ですね。」

「そうそう。だってロマンチックでしょう。だから私達、『椰子の実』が大好きでした。」

伊達さんは笑顔になった。芸術を愛する少女の姿が重なった。この少女の笑顔のために、天が与えてくださったこの仕事をやり抜こうと心に誓った。

(「里」二千二十三年一月号より)

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